河合純一さんの物語を講談化

パラリンピックの会長であり、21個のメダリスト河合純一さんの講談出来たので、純一さんに提出しました。
純一さんと一緒に、東京オリンピック盛り上げていきます~~

提出したのは30分の話ですが、ちょっとだけ皆様に披露します。

純一さんのことを少しでも知って頂けたら、嬉しいです(^-^)v

【全盲の金メダリスト河合純一とそれを支えた人たち】
 
桜の花が咲き染めし昭和50年4月19日に、静岡県浜名郡舞阪町(まいさかちょう)にオギャーと産声を上げましたのは河合純一。
生まれつき左目はまったく見えず、右目にわずかな視力があるだけでした。

三歳のときに右目の手術を受け0.1にはなりましたが、医者からは、
「右目の視力は一時的なもので、見えなくなる日が来るから覚悟しておきなさい」といわれてしまいます。

そんなことでへこたれてしまう純一ではございません。休む暇もなく、スイミングスクールに体操教室、エレクトーンに、書道、空手、英語、英会話、その他、神田山緑の講談教室に通っていたら私は嬉しいんですけど。
負けず嫌いな性格ですから何をやるにも一生懸命。

一番の支えになりましたのが両親で、「この子のやりたいことは、なんでもやらせてやろう」と温かく見守っております。
中でも一番熱中したのが水泳で、五歳のときにスイミングスクールに入ると、以来メキメキと上達いたします。

地区大会では、五・六年生のときに背泳ぎで二年連続優勝。
「僕の夢は、世界一の水泳選手になることだ。それから学校の先生になって、給食をいっぱい食べてやる」
こんなことを思っていたある日のこと、
六年生の秋に恐れていたことが現実となり、右目の視力がドンドン弱くなってきました。
中学生になると、さらに視力は落ちてきましたが、家族や友達の助けもあって何とか生活できましたが、プールの中は違ってきます。
プールの底のラインが見えない。真っ直ぐ泳ぐことができなくなったのです。コースロープに沿って泳いでも腕をロープで擦り傷だらけになりました。

しかも、プールの壁も見えないので、ターンで折り返すときにドーンっと何度も壁に激突してケガをしてしまいます。
「こんなに練習をしているのにうまく泳げない。 もう泳げない。 僕の夢は終わりだ・・・」うなだれる純一に水泳部の先生の声がしてくる。

「純一、こんなことでへこたれるな、今まで頑張ってきたんだから、純一、水を何回かいたら、壁がくるか数えてみろ。 体で覚えるんだ」
「えー 水をかいた数?  数えながら泳ぐ?  全力でスピードを出しているときに、そんなの無理だよ・・・」と、

顔を下差しうつむきますと、すると水が揺れながらキラキラ輝いているのがよく分かります。小さいころから泳ぎ続け、喜びや悔しさが溶け込んでいるプール。

「もっと泳ぎたい。もっともっと水の中にいたい。そして世界一の水泳選手になりたい。その夢はあきらめないぞ。だって目が見えなくたって、僕は僕、 河合純一であることには変わりはないんだから、よし、先生の言うようにやってみよう」そして純一は練習を続けます。

これから純一は、ある人の出会いによって、人生を大きく変える訳ですが、これからが面白いお話ですが、今日のところはこれまで!

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